カンタータを形作る音楽 - 本山秀毅2008/05/11 16:53

 専門的なことを羅列するより、印象的に述べたいと思う。よく言われることに、「あの心地よい、しかし長い音楽を意味も分からずに聴いていると眠くなる」というのがある。同感である。演奏しているほうも、たとえばクリスマスオラトリオの第2部の子守歌のアルトアリアなどは、さすがに演奏しながら眠くなることはないが、早く終わってほしいと思いながら演奏していることは確かである。背中ではお客さんの寝息が感じられるのである。



 まず「アリア」と呼ばれる曲の種類がある。いわゆる「歌」である。旋律の美しさや歌手の技術が存分に堪能できる部分である。オペラの好きな方なら、聴かせどころが満載の華やかな音楽を期待されるだろう。「いかに長く」「いかに早く」といったオリンピック的な興味もある。しかしバッハのカンタータのアリアは(そういうところが無いわけではないが)おおむね地味である。フェルマータで延々と延ばしたりはしない。歌い手も両手を前に挙げたりはしない。おまけにバロック音楽特有の「ダカーポアリア」などというのがある。いわゆる「ABA」の形式を持つものである。かなり長く曲が続いたと思うと、また「最初に戻る」のである。これは 強烈である。歌い手がどんなに上手に歌っても「さっき聴いた」のと同じなのである。こんな訳でよほど美しい声でもない限り、また目の覚めるような技術でもない限りバッハのアリアを聴 かせるのは大変難しい。聴くのも難しい。
 それではどう考えれば良いのだろうか。例えば映画の中に出てくる主人公の回想シーンを考えてみるのをお勧めする。ドラマの動きが止まってその中に主観的な感情が交錯する。十分時間をかけて。またストップモーションというのもある。画面が停止している間に主人公の一瞬のおもいが時間をかけて描写される。フランス映画などに良く出てくる方法であるが、そんな風にアリアを考えるとその意味が理解できる。あるキーワードになる歌詞は覚えておく必要がある。なぜなら主人公が何を考えているかが分からない回想シーンなどは面白くないからである。しかし一語一句全部追う必要はない。どうせ言葉の繰り返しも多いことだから。それでもアクション映画のほうが好きな方には難しいかもしれないが。
 教会でカンタータに接する人には、はじめは「彼」や「彼女」の歌として聴いているが、アリアのゆったりとした時間の中でその人称を「Ich]にダブらせて聴くことも可能なのである。主人公の心の動きに共感できる部分を持つことができる楽しみがアリアにはある。そのときに音楽による福音の表現という目的が達せられるのである。



 「レチタティーヴォ」という音楽。これはアリアの「歌」に対して「語り」の部分であると考えられる。バッハのカンタータではチェンバロやオルガンの和音進行にチェロやコントラバスの低音の支えを加えた伴奏にのって歌われる。その伴奏形がシンプルなことから「レチタティーヴォ・セッコ」(Seccoとは「乾いた」という意味)と呼ばれることもある。またアリアとレチタティーヴォの中間的な性格を持つ「レチタティーヴォ・アコンパニアート(伴奏付きのレチタティーヴォ)」や「アリオーゾ」と呼ばれるものもある。
 「レチタティーヴォ」は「語られる」がゆえに多くの情報量を持つことができる。しかし同じ言葉が繰り返されることは稀である。物語の筋を展開していくときなどには必ずレチタティーヴォが用いられる。バッハにおいては受難曲やクリスマスの物語のエヴァンゲリスト(福音史家)がその最たる例である。しかしカンタータではどちらかというとはっきりした筋立てよりも、ひとつの抽象概念からもうひとつの概念へのゆったりとした橋渡しの役割をしているように思われる。そこに何か具体的なストーリーを期待するとその整合性のなさや、突然の転換にとまどうこともあるが、アリアのときにも述べたように、行間にある聴き手に与えられた余裕を、自分の想像力で埋めながら聴くのは楽しいものである。
 また時としてレチタティーヴォの歌詞の中には時代を読み取ることのできるものなどが顔を出し、興味深い。たとえばカンタータ第18番には次のような歌詞がある。「主よ、われらをトルコ人と、ローマ法王の恐ろしき殺害と冒涜、暴虐と狂暴から父のごとくおまもりください」もちろんバッハの作詞ではないがこの歌詞をとりあげ、作曲したところにカトリックに対する姿勢がかいま見えて愉快である。



 もう一つ忘れてはならない音楽の構成要素は「コラール」である。合唱を志す人たちが最初に持つバッハとの接点であり、また最後に行き着く場所でもある。合唱に関して言えば、カンタータにはその第1曲目に比較的大規模な「冒頭合唱」が置かれることが多い。カンタータ第80番「神はわがやぐら」においても、それだけで独立した音楽として扱えるほどの立派な合唱曲が置かれている。その日のカンタータの主題を総合的に把握した言葉と音楽であふれたこの「冒頭合唱」のもつ魅力は大変に大きい。
 しかし、カンタータ全曲の最後につつましく素朴に存在する「コラール」のもつ力はそれ以上のものがあると確信する。この4声体でできている合唱曲が、元来教会で歌われる「讃美歌」と性格を同じにしていると位置づけるとわかりやすい。それはそこに集う人々みなが知っている旋律、テキストであることを前提にしている。そしてそれを聴いている人たち、教会においては「会衆」たちが、それまで続けられて来たカンタータの主題に、共通の語彙でもって共感しあい、確認しあうことができるのである。演奏者だけの世界から、福音の世界を身近なものへと変えてくれるのである。そこには共同体「われわれ」としての広がりがある。音楽の形式を通して次元の異なる世界へと導いてくれるすばらしい瞬間であると思う。
 カンタータにおけるコラールの演奏に際して、ドイツで学んだ最大のコツは、「技巧的」になりすぎないことであった。もちろん洗練されたトーンは必要であると考えられるが、その意味するところ、内容を考えると、大勢のいわゆる普通のひとびとが心の中で唱和できるものでなければならないのである。純朴で骨太のがっしりした線を持つ音楽と歌詞の流れがコラールの身上であると考えている。


(1997年4月20日のコンサートのプログラムより転載)



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カンタータと言葉 - 本山秀毅2008/04/25 22:44

 カンタータはすべての声楽作品がほとんどそうであるように、「歌詞」「音楽」からできているのであるが、音楽の偉大さに目をむけることは多くても、「テキスト」に注意を払うむきは極めて少ない。それが「ドイツ語」であることが第一の理由。そして翻訳を見ても「汝苦悩のうちにありても神より見放されたとおもうなかれ」とか「神はわが顔の助け、わが神なればなり」などとありがたいのだろうが実感を伴わないような文語調であることが第二の理由。宗教音楽だからといってことさら堅苦しい翻訳にするのは問題があると思う。これは今後改善されるべき問題だと思う。ドイツ語がクリアできても、その歌詞自体の意味が理解しにくいものであることが第三の理由。これは驚いたことにちゃんと教育を受けた現代のドイツ人でさえも理解できない言葉や死語が数多く出てくるのである。となると年端も行かない少年合唱団などが歌っているのは本当に意味が分かっているのか、その演奏を聴いて「感動した」などと言っているのはいったいどういうことなのか。
 歌詞の付いている音楽作品を観察する場合、なぜその作曲家がその歌詞を選んだのか、またどのように扱っているかは大変重要な問題である。あまたの詩の中よりそれを音楽化しようとするだけの意欲がわいたのはどういう理由によるものなのか、またその詩をどこで区切って、どれくらいの長さでどんなふうに音にしているのかなど、歌詞に関する問題を考えていくとなかなか興味深い。



 バッハのカンタータの中には確かに一度聴いただけでは、あるいは翻訳を読んだだけでは理解できないものもある。当時の歴史的な言葉づかいやいわゆる隠喩的な語法など、あらかじめベースになる知識がないと理解できないものも多い。しかし反面、一度聴いたら決して忘れることのない、シンプルでなおかつ含蓄に富む、また日々の生活の慰めや励ましになるようなものも存在するのである。
 たとえばカンタータ21番の最初の1行はどうだろう。

わたしの心は憂いに満ちている。
しかしあなたの慰めはわたしの心を喜ばせる。


 非常にシンプルであるが、その行間に聴く人のイメージを大きく膨らませることのできるテキストである。人間の精神生活は時代とともに移ろい行く面もあるが、不変である部分の素晴らしさ、大切さを、それを三百年の時空を超えてバッハの音楽が気づかせてくれるところに大きな感動がある。受難曲のように具体的な物語の展開に一喜一憂するのはある意味で当然かもしれないが、このように単純な文章の中にそれぞれが普遍的な感動を呼び起こされ、それが抱え持つ印象も受け取り手の可能性に委ねられているのは素晴らしいことだと思う。この「感じ方」こそが音楽とともに人間が高められていく大切なポイントではないだろうか。


(1997年4月20日のコンサートのプログラムより転載)



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カンタータと時間の流れ - 本山秀毅2008/03/16 21:45

 バッハのカンタータには季節がある。ご存知のように彼は「カンタータ年巻」と呼ばれる、教会暦に沿った主日ごとのカンタータの作曲を行った。現在のキリスト教会のカレンダーにおいて、当の教会でもその暦を意識するのは、復活祭とそれに先立つ四旬節、クリスマスやアドヴェントそれにペンテコステなどであろう。
バッハの時代もそれらは大きな意味を持っていた。それぞれの日にはその暦の意味するところから説教の主題が選ばれ、それに関連した音楽が選ばれたのである。
 しかし彼の時代は今よりはるかに数多くの教会暦が意識され、人々の生活に根差していたのである。彼が作曲した主日には、その名前を聞いても一体それがいつで、何の祝日なのか調べないとわからないものがたくさんある。同じように現代のドイツにおける受容もわれわれとほとんど変わらないと思われる。しかし当時のバッハを取り巻く環境が、そこに生きる人々が今よりはるかに教会から多くの影響を受けて生活してきたことは言うまでもない。そこには自然の移ろいによる季節感に加えて、教会の暦に関連して奏でられた音楽が、そのテキストが四季折々に色彩を加えていたのである。



 多くの教会カンタータの中から1曲だけを聴いてもなかなか季節感のようなものは理解できないかもしれないが、何曲も聴くうちにその歌詞の中にあるキーワードがそれぞれの季節を表す言葉になっていることに気づいたり、その気分を実にうまくバッハが音楽で語っていたりするのにほくそ笑むことができるのである。日本では、あるいはドイツでも毎週の礼拝に彼の教会カンタータを連続して聴くことは難しいが、彼の時代のように毎週のこととなると、もちろんそれが音楽による福音の表現であると同時に、キリスト教的なものを離れてゆったりとした時間の流れを意識させる生活の節目のような存在になっていたことだろう。宗教音楽にさえ見られるTanz(舞曲)のリズムを基調とした音楽作りは、それが黄金色の小麦の収穫を喜ぶ農民が輪になって踊るブリューゲルの絵のような素朴な感情をも思い起こさせるものになっているのである。



 個人的な経験で恐縮だが、ドイツにいたときに日曜の午前中にラジオをつけるとバッハのカンタータを流していた。それが実によくドイツの風土に合うのである。まだ眠気の残る日曜の朝、乾いた空気に凛として立ち上がる弦楽器の響き、それに導かれるわきあがるような賛美の声。まさにドイツらしいひとこまであった。今でも日曜の朝にカンタータを流すと(聴くのではなく)ドイツの空気が蘇る。別の意味でバッハのカンタータは、現代に生きる自分自身にとっても「時間の流れ」を意識させるものになっているのである。

(1997年4月20日のコンサートのプログラムより転載)



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